昭和40年12月30日 夜の御理解



 今年も余すところ今日と明日と お互いがとにかくお正月を迎える為の準備で男も女も家族中の者があげて、大らわでございますが、結局はお正月に本当に気分の良いお正月を、迎えたいというのがそれでございましょうね。ものを借ってるものがあったら返しておこう、貸してるものがあったらもらっておこう、ひとつ斬りつけて、そして、気分ようお正月を迎えさして頂きたいと。
 今日は久富さん、少し早く見えましてから、部屋中の軸から掛け物,、色紙の類まで、全部取り替えてまわられました。それこそめでたい鶴がついておる軸とか、松の松とか 松の字がついておる字とか ね。梅とか色紙には福寿草の絵がついておる、いわゆる正月らしいものに取り替えられ、家のお掃除をした。軸物を替えられる、お花も生け上げた、借金払いも済んだ。
 取るものも取った やるものもやったという様な風にして、ま、ひときりつけよう。でないと矢張り正月が、正月らしい気分が頂けん、明日は大体 お道の信心。以前は、矢張りこの大祓式というのがあっておりました。三十一日に大祓がありました、最近では、あれは金光教的ではないというので、大祓式は何処も取り止められました。けれども、やっぱり昔からあの 古い教会なんかしきたりがございますもんですから。
 やっぱり形式は同じ、人形型つくって、そしてそれに名前やら年やらを書いて、それを明日の三十一日のお祭りに払うてもらおうと、そこの教会で一年中のお礼のお祭りだ、お詫びのお祭りだという風に、名称をかえられて、大祓とは申しません。けれども、私は大体いうたらこの大祓というものが、一番適切じゃないかと思うですねえ。本当に大祓を受けて そして いわゆる元日ということにならなければならん。
 そこでその私共が色々今も申します様に、兎に角あれもかたづけ、これも処理しておかなければならんと、内外共に、家の中でも、いわゆる掛け物軸の様なものまで、正月らしいものを、雰囲気の物と取り替えるというように、努力を致しますがです。私はその どうでもひとつ、ここにですね、人間の知恵とか力とか、そういう様なもので、いかにしたところで 分からせて頂けば頂くほど、御粗末、ご無礼の一年間であったという事がです、ですから形だけ。
 もう愈正月が迎えられる、元日が迎えられる、ということになっただけではです、なる程気分だけは、お屠蘇の気分は味わえましょう。すっきりとすす払いを、致しますと気分が良いぞ、という様にして正月は、なる程めでたい気分に、ひたらしてもらうのでございますけれども、サァーそれが3日経ち、5日経ちするうちに、正月の気分というものがなくなってしまう。
 これではだから、正月の何日間かの気分を味合うただけであるね、だから信心させて頂くものは、ここんところを教祖の神様が仰る様に ね、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて と日々に嬉しゅう暮らせばその、嬉しゅう暮らさせてもらえれる、有難く暮らさせてもらえれるという日々でなからなければならない。ねえ。とりわけ、例えば年末という時とは、やっぱりひとつの 切りというものをつけなければなりませんから、一年中のこと振り返らせて頂いてね。
 あれも御粗末であった、これもご無礼であったという御粗末、ご無礼のその事をです、出来るかぎりの、言わば人力の限りを尽くして人間の力の限りをつくして、私は改まらしてもらい、そしてお詫びさしてもらい、それでも足りない それでも足りないところを、私は しでのさやぎのさやさやにと云う様に、お祓いを受けさせて頂くところの気分、言わば自力と他力が ここに二つがです。
 どうしてもそういう働きになってこなければ、言わば気分の良い お正月にそれに加えて有難いという正月にはならないと思う。私はこの事をです、初代の甘木の親先生に、ある先生が、親先生大祓というのは大体金光教とはないと思うけれども当時はやはり大祓をなさっておられた。何かこうして祓てもろうたり、祓うてもろうたがつ何があるでしょうかち、云うてから尋ねた人があった祓いや祓い方あると云われたそうです。
 これは私はそのいわゆる神業であり、いうならば他力の働きの事を云うておられるのであると、こう思うただから祓うてもろうただけでも矢張り、そうしたあるのでございますから、此処に私共が日々に嬉しゅう有難く暮らせれる為のです、人事の限り努力の限り限りなく改まらして頂く事の限りをです、一年間でけなかったそこん所を多少でもね、例えばここんところを改まらしてもろうて、おかげを蒙って頂きたい。ね、
 その 私は一生懸命が私は、神様の一生懸命というか神様の働きを、いわば仏教的に云うならば、自力と他力というような言葉を申します。その自力と他力との働きがです、渾然としたところのものになって、始めて私は、有難い元日が迎えられるのである。いわゆる四方拝である、自分の周囲の一切が四方拝である。
 拝めるところのおかげを受けれるんじゃないかとこう思うのです。只もう正月には泣いちでけん、不平不足は云うちゃならんと、只おさえちおるだけではいけん。なる程気分だけはそれで味わえるかもしれんけれども、もう私共のように盆もなからにゃ正月もないというものはです、もうわざわざ正月だから新しいタオルに替えるのでもない。わざわざこの奉仕着を、ほんならよか奉仕着に替えるという訳でもない。
 もうこれは私だけかも知れません椛目では、けれども私の場合は晦日もなからなければ、元日もないのでございますけれどもね。皆さんはそんな訳でもない。もう意義を正して、先生おめでとう御座いますと、こう本当におめでとう御座いますが言えれる内容を私はもうあと余す所今日と明日でございます。只お祓いを受ければそれで良いというわけじゃない。一年中のお礼参りがでけたから、それで良いのじゃない。ね、
 それに添えさして頂くところの私は人力の限りと申しますか、言わば自力の限りを私は、おかげを蒙らしてもらい。先程、伊万里の渕上さんが 愈 まあ新しい春を迎えさしてもらう、これからはどういうような心がけで、これからは過ごさせて頂いたらよいだろうかというて、お伺いがあった。そしたら、あたりまえのことですよね、実意丁寧神信心したらいい。ね いかに実意丁寧神信心が難しいかという事が分かる。
 いくらお伺いしても、実意丁寧、神信心になる以外にない、お道の信心は。そしてそれにつけ加える様にですね、平たく、平たくと頂きました。平たくというのはもうひらぐもの様にという事でしょうね。大地にひれ伏すという事でしょうね、だから、形だけがひれふすというのじゃない、ひれ伏さなければおられないという、それが内容を思うてみなければいけない。
 自分の心の中に、いかにひれふしておりましても、心の中に不足があり、不平があるならば、それはひらたくではないという事。自分の心というものをです、本当に検討させて頂いて、本当に勿体ない事ではある、という その勿体ないことではあるというのが、ひれふした姿にならせて頂く。そういう例えば思いでの御用をもって。それを実意丁寧な私は御用だと思う。
 そういう心をもって、神信心させて頂くことが、実意丁寧神信心だとこう思う。ですから、もう本当に大祓にも向わして頂く、明日の此処では除夜祭と申しますが、除夜祭に向わして頂くところの、今日と明日だけでもです、本気で私は 実意丁寧神信心 しかもその上にひらたく ひらたくなれれる内容というもの 本気で頂きたい。そして新しい年を迎えたい、そして新しい年がです。
 気分が良いとか悪いとかじゃない、兎に角有難いというお正月でありたい。いわゆる四方拝である。周囲の一切がもう何とはなしに拝まなければおられんのである。使わして頂くのに本当に頭が矢張り、下げまいと思うても下るという様なです、内容をもって私は元日を迎えたい、正月を迎えたい、新しい春を、そしてその心構えとしたい。私はここんところに 皆さん分かって頂きたい という事は私はもしここで教会になり。
 なったら恐ろしく除夜祭を又、大祓と言った様な方法でやる様に、なるかもしれんと思います。何処ってそれは甘木の先生が仰ったからではないけれども、私も感じるところがあるのです。確かに受ければ受けるがたあるのです。ね、やはり祓い、いわゆる特別の神様の働きという 本当の神風なのである。ね だから神様だけの、いわばその風にとどめては金光的ではないです。
 ですから、実意丁寧にいわばひらたくひらたくなれる内容をです、せめて一日でも二日間でも、そこに取り組ませて頂いて。いわゆる自力の限りと他力のかぎりと申しましょうかね、自力と他力がそこにひとつ、渾然としてです、私共がでけないところは 神様に見直し、聞きなおしして頂いて、何ぁにも勤めずしといてから、どうぞ神様その御粗末ご無礼を、見直し聞きなおし頂きまして、ということではいけん。
 自分でも一生懸命努めたけれどもこれだけしか出来ません。一生懸命に ね、改まろうと勤めましたけれども、これだけしかでけません。そこのところをくんで頂いて 一生懸命くんで頂いて、神様の特別の、いわば これはもう信心でより他に 信心さして頂かなければ分らない、いわゆる神様の働きというものを受け、そこに私は 明日の除夜祭の意義というものはあると思うのです。
 どうでも ひとつ気分の良いお正月を迎えるというだけではなくて。心から有難いというお正月 ね、その有難いというお正月でなからなければ、長く続きしない。もう 正月三日間だけ一生懸命こらえたけれども、四日目には爆発するというような事ではいけません。矢張り本当に、四方の一切が拝めれる内容を。ね。頂かしてもらう。そこに私共の人間で勤められるだけの。いわゆる実意丁寧神信心ということがです。
 それが ひらたくひらたくでけれる内容を、頂かしてもらい、いかにもひらたくしておる様であっても、そこに不足があり、不平が自分の心にあるならば、ハァー自分なひらたくひらたくじゃなっていないんだと、悟らしてもろうて、そこをお詫びさしてもらい、改まらしてもらい、そして大祓を受ける気持ちで、今日明日を過ごさせて頂きたいという風に思いますですね。
   どうぞ。